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日本海に面し、兵庫県北部に位置する豊岡市。コウノトリが生息する豊かな自然をはじめ、開湯1300年の歴史を誇る「城崎温泉」、但馬の小京都と称される「出石」、世界ジオパークに認定された山陰海岸ジオパークエリアにある「玄武洞」などの豊富な観光資源を持ち、近年は外国人旅行者が急増中だ。2016年には官民連携の豊岡版DMO「一般社団法人 豊岡観光イノベーション」を設立し、徹底したマーケティングで観光地経営を推進。そしていま、演劇を核としたまちづくりに取り組んでいる。
観光地経営組織の豊岡版DMO理事長であり、地域経営に手腕を発揮する兵庫県豊岡市長・中貝宗治氏。そして、組織のトップとして会社を再建し、V字回復を成し遂げたJAL会長・植木義晴。前例に捉われず、変革を先導する強いリーダーシップを発揮する二人が、「経営とブランディング」をテーマに語り合った。(2019年7月)

城崎温泉

まち全体が一軒の旅館 ― 城崎温泉は、まるで映画のオープンセット

植木城崎温泉には子供のころに父に連れられて一度来たことがあります。当然その頃とは印象は変わっていますが、昨日ご案内いただいたときは懐かしい感じがしてほっこりしましたね。観光客の方が楽しめる仕組みもよくできていらっしゃる。城崎温泉というと志賀直哉先生の「城の崎にて」という小説を思い出します。僕が中学生になって初めて日本文学的なものを読んだのがあの小説でしたが、難しくてさっぱりわからなかった(笑)。僕の父は映画俳優で、志賀先生と親しくさせていただいていたこともあって、ときどき自宅にいらして父と将棋を指していらっしゃいました。父が亡くなったときに遺品を整理していたら、4つ足の立派な将棋台がでてきて、ふと裏返ししたら、“志賀直哉”と書いてある。これ、なんで?と母に尋ねたら、将棋で負けたほうがサインをするという約束があったそうで、父もあちらにおじゃまして負けたときには、片岡千恵蔵とサインしていたらしいです(笑)。だから、なんとなく城崎には縁を感じていましたし、昨日ぶらぶらと温泉街を歩いてみて、あぁこれはいいなって。まち全体が一つの温泉旅館という、このコンセプトがいいですよね。

中貝ありがとうございます。城崎は、共存共栄が文字通りの鉄則になっているまちなんです。山間の温泉街で規模が小さいですから、ほかの温泉地のように一つのホテルや旅館で土産物も飲食も全部を抱え込もうと思っても難しいところがありますので、まち全体を一つの旅館に例えて、まち全体でおもてなしができるようになっています。城崎温泉駅が旅館の玄関、柳並木の道路は廊下、個々の旅館が一つ一つの客室、お土産屋が売店、そして外湯が旅館の内湯みたいなイメージなんです。城崎の人たちは本当に仲がいいんですよ。お土産屋の皆さんは旅館があるからこそお客さまに来ていただけるという、それなりの敬意を持って接しています。大きな旅館を除けば殆どの旅館には土産物を置いていませんし、コーヒーを飲みたくても3軒隣りの喫茶店に案内されるという感じですので、まち全体で支え合わなければならない構造がもともとつくられていて、それがこの城崎の魅力にもなっているわけですね。

温泉街の店の多くは夜の7時頃は閉まっています。お休みかなと思うとそうではない。その時間帯はお客さまが旅館で夕食をとられているので店の人たちの休憩時間なんですね。夜の8時半か9時頃になると、そろそろお客さまが出てこられるよ、ということで店を開けています。夕食後にはなるべくお客さまにまちへ出て行っていただいて、外湯に入っていただいたり、湯上りのビールを飲んでいただいたり、土産物を買っていただいたりと、まち全体でおもてなしをする。別の言い方をすると、まち全体におカネを落とさざるを得ない仕組みになっているわけです(笑)。

植木あ、僕も昨夜、思わずお土産を買ってしまった。まんまと仕組みにハマったわけですね(笑)。でも、たしかに温泉へ行くと、旅館の温泉に入って夕食を済ませたら部屋でテレビを観てのんびりという感じですね、僕は。

中貝夏の間は月曜から金曜まで毎晩9時に10分程度の花火があがるのですが、それは旅館からまちへ出ていただくための仕掛けになっていまして、「花火がありますから、どうぞご覧になってきてください」といって送り出すんですね。その時間になるとぞろぞろとみんなが外にでてきますから、花火を見終わると手ぶらで帰る気にはならないのでいろいろな店に行って買い物をしたり、ビールを飲みたくなるわけです。まち全体でおもてなしをして、まち全体で潤う、この共存共栄の精神が鉄則としてあるので横紙破りは許されない、みたいなね(笑)。

植木でも、伝統的にその精神が浸透していて、皆さんがその鉄則を守りながら御商売されている。まちの皆さんで魅力のある観光地づくりをされているのですから、これは素晴らしいことですよね。お話しを聞いていてふと思い出したのが、東映の太秦撮影所。昔から時代劇は京都で撮る、現代劇は東京の撮影所で撮るというのがあって、京都の撮影所には“セット”というのがあるんですね。ものすごく大きな建物の中にすべてが造りこまれていて、そこで撮影をする。そういった一群の横に“オープンセット”と言われるセットがあって、ここがいまの「東映太秦映画村」になっているのですが、ここには昔の長屋があったり、米屋があったり、小川に橋が架かっていたりして、ときどき俳優さんが出てきて、エイヤーッ!とチャンバラをしているのも観ることができる。時代劇の町並み全部が造られているんです。だから、城崎は映画のオープンセットなんだなぁと、お話しをお聞きしていて思いました。まちごと一つの温泉旅館として造りこんだという感じで、なんだか楽しいですよね。

古き町並み、浴衣、下駄の鳴る音 ― 伝統的な日本スタイルが外国人旅行者に響いた

植木城崎は外国人旅行者もすごく増えていらっしゃるそうですね。昨夜もけっこうお見かけしました。

中貝おかげさまで城崎を含めて豊岡市への外国人旅行者はこの数年ですごく増えています。城崎だけでいえば、昨年一年間で宿泊者数は4万4千人。今年は第1四半期(1月~3月)で対前年比45%増でした。一番多いのが東アジアで、台湾、中国、香港、それからタイ。そしてアメリカ、フランス、オーストラリアという順です。我々は欧米豪をメインターゲットにしているのですが、この方々は第2四半期と第3四半期に多く来られていて、その期間の欧米豪のシェアは約44%で非常に多いんですね。年間では約32%が欧米豪です。

植木それは凄い。日本のインバウンドは中国、台湾、韓国、香港でだいたい8割近く行きますから、欧米豪だけでそれだけのシェアをとるというのは、ほかとは全然違う構成になっていますよね。

中貝欧米豪の方々は個人客の方が多くて、城崎で日本の文化をしっかりと楽しみたいという方が多いですね。城崎は小さいまちですから、団体客はもともと得意ではないのですが、このこじんまりとしているところが海外の方々には功を奏していて、古い町並みを浴衣を着て、下駄をカランコロンと鳴らして歩くというこの日本のスタイルをすごく評価をしていただいています。実はこれがクチコミで広がっているんです。アンケートをずっととっているのですが、「城崎温泉を何で知りましたか?」というと、“家族・友人・知人の紹介”が1位なんです。SNSを駆使していろいろと発信していますし、豊岡市の外国語版WEBサイト「Visit Kinosaki」には旅館情報や浴衣の着方、外湯の利用方法や温泉でのマナーなども掲載しています。11言語に対応し、ドイツやイタリア、オランダ、スペインもカバーしています。

でも、地道な努力もしているんですよ。城崎に来られる人たちの6割程が京都か大阪からなのですが、グーグルの調査ではインバウンドの12%は日本に来てから行く場所を決めるそうなんですね。ですから、豊岡のDMOのスタッフが京都や大阪のホテルのコンシェルジュまわりをして、京都市内には温泉がありませんので、「どこか近くに日本的な温泉はない?と聞かれたときは、どうぞこれを渡してください」と言って、二次元バーコード付きのパンフレットをホテルの方にお渡ししてくるんです。それを見た外国人旅行者の方は、あ、城崎いいじゃない、と言って来てくださる。足を使ってPRすることもしっかりとやっています(笑)。

Visit Kinosaki

ブランドとは「人」が創り上げるもの ― そのブランドを輝かせるのはトップの仕事

植木いまおっしゃったDMOというのが、市長が理事長をされている観光地経営の組織なのですね。パンフレットを単に配っているわけではなく、二次元バーコードを使ったマーケティングをされていらっしゃる。

中貝2016年に豊岡版DMOの「豊岡観光イノベーション」(TOYOOKA TOURISM INNOVATION)をつくりました。我々は“TTI”と呼んでいますが、先ほどご紹介したアンケートもこのTTIが実施して、集計や分析をしています。TTIをつくったからインバウンドが伸びたのではなく、既に城崎のインバウンドは増えていたので、これから先もさらにインバウンドを増やしていくための戦略部隊としてTTIを立ち上げました。

出石城跡

インバウンドは圧倒的に城崎が多いので、できる限り豊岡市内に長く滞在していただくには広域連携が不可欠なんですね。例えば、城崎温泉と城下町の出石との連携を図るなど、地域のリソースをつないだ豊岡市の戦略をつくる必要がありますが、そういった豊岡全体を俯瞰して戦略をたてる組織がなかったんです。個々のまちも頑張っていますが、いま自分たちのまちの観光がどのような状況にあるかをデータに基づいて分析し、戦略を立てることが基本的にできていないし、市役所もそういったマーケティングは得意ではない。そこで、我々の公的組織と民間企業が連携することで地域の稼ぐ力を引き出し、観光地経営の視点に立った観光地域づくりを行っていこうと、マーケティング戦略に基づき、地域全体をマネジメントできるDMO法人としてTTIをつくったんです。分析してマーケティング戦略をつくること自体はおカネを生まないので、放っておいたら誰もやらないんですよ(笑)。どこの国の人がどういうルートで豊岡に入り、どこにどのくらい滞在してどういうふうに動いて、どこに抜けているのかという調査や、何に反応して来られたのか、どのくらい消費額があるのかというのも調べて戦略に活かしています。

海外へのアプローチも重要ですが、各々の観光協会では海外のどこのメディアに頼めばよいかもわからないので、TTIと市の職員とで海外に積極的に売り込んでいます。昨年度の海外メディアの露出は128件あって、広告換算すれば2億円以上、視聴者数と読者数の単純計算ではリーチ数が2億5千万人です。もともとの魅力とクチコミに加えて、こちらから積極的にPRをすることで多くの方にこの豊岡を知っていただき、来ていただく。個々のまちの価値が豊岡として輝くためのブランディングですね。

植木マーケティングをやってブランドをつくるということですよね。豊岡全体論と同じで、僕は社長になってからブランド部門を組織化しました。いろいろなグループ会社やそれぞれのセクションでみんなが頑張っている。けれどもブランドの考え方や意識がバラバラだったので、せっかく頑張っているのにもったいないと感じていました。だからグループ会社も含めた全社員のブランドの考えを統一するための組織をつくったんです。ただ、組織の有様よりも僕が最初にやったのは、一緒に取り組む「人」を選ぶことでした。経営破綻したときの第一期執行体制のなかに、6,000人の客室乗務員を束ねる役員に初めて就いた女性がいた。その人は僕が持っていないものを持っていて、それはセンス、感性というもの。こういったことに関しては、僕はこの人には勝てないと思ったので彼女を説得してブランドの統括をお願いしました。ブランド研修はグループ全社員が受けられるように時間をかけて何回もやりましたね。社員は180度変わりましたよ。行動を見ていればわかる。

ブランドの“最初”は何かといえば、人に知ってもらうってことですよね。自分が社長になってこの会社を引き継いで思ったことは、伝統があって、日本人でJALを知らない人はおそらくいないし、こんなに強いブランドはないだろうと。うちの会社より社員数が多くて売上高が高い会社はいくらでもありますけど。だから僕はものすごく素晴らしいブランドの基礎を先輩から受け継いだのだと思って、これをさらに磨きかけるにはどうすればいいか。それを考えて努力をしてきましたね。

僕はここ(背広の内ポケット)にいつも「JALフィロソフィ」の手帳を入れているのですが、会社で共に働くことに対する共通の考え方を全員が持とうということで40項目つくりました。そのなかに「一人ひとりがJAL」というフィロソフィがあります。僕はそれがまさしくブランドだと思っているんです。例えば昨夜、食事のときに世話をしてくれた女性、彼女の笑顔だけでもう1回来ようって思いますよね。僕にとっては彼女がまさしくその店のブランドでハードやソフトでは代えられない。彼女の応対があの店のブランドをつくるんです。ブランドは自分がこうだと決めるものではなくて、周りの人が感じるものだと思います。ですから、やっぱり最後は社員がお客さまにどれだけ印象を持っていただいて愛されるのか。これがブランドのすべてのような気がしますね。そしてそのブランドを輝かせるのがまさしくトップの仕事ですね。

中貝異議なしです(笑)。

“顔”となるトップは「役者」 ― 自分の感性を信じて決断、行動し、責任と覚悟を持つ

植木ブランドというと広告のイメージが強いですが、最後はやっぱり「人」です。社員一人一人が創り出すのがブランド。だから経営者もブランドです。僕は、スーツだとかヘアスタイルだとか会社として恥ずかしくないようにプロデュースしてほしいなあと思って、秘書部に「社長以上の広告塔はないやろ。歩く広告塔のようなものなんだから、俺をもっと大切にせえ」と。でもぜんぜん聞いてもらえなかった(笑)。自分の会社のトップが周りの人から素敵だと言われたら、社員もうれしいんちゃうかって(笑)。市で言えば、市長がブランドですよね。

中貝そうですね(笑)。僕は自分を“舞台役者”だと定義してきました。合併前の台風23号(2004年)のときからですね。死者は7人、5,000世帯が床上浸水以上で被害がひどく、メディアが押し寄せてきたんです。すごく荒々しい人もいましたが、このメディアの人たちの向こうに市民がいると思ったのでグッと辛抱して、僕のメッセージをしっかりと市民に伝えよう、短い言葉で発信しようと決めました。要は長く話さず、翌日の新聞の見出しになるような言葉を考え、それを言ってから補足することをやってきました。泰然自若に、絶えずメッセージを出すことが重要だと思って。

救助活動やら何やらでものすごく大変な時に国の災害対策特別委員会から呼ばれたのですが、そのときは防災服を着たまま行ったんですね。その委員会の冒頭で「心は被災地と共にありたいので防災服で来ました」と言ったら、翌朝の新聞に「心は被災地と共に」と出て、別の日に「市民一丸となって復興に向けて頑張ります」と言ったら、「市民一丸」と出た。また、水害にあって間もないころに地元のコミュニティFMに出演したのですが、パーソナリティの方から「市長、大量なゴミで大変ですね」と言われたんですね。合併後の8万人の豊岡市民が1年かけて出すゴミ、それに相当するゴミが1日で出ていて、水に浸かっていますからゴミと泥との闘いだったんです。でも僕は、「本当はゴミではなかったんです。台風に襲われる直前まで市民の皆さんの大切な家財道具であり、思い出のアルバムなんです。でも生活する場を取り戻すにはゴミとして出さなければならないんです」と話したら、これが響いたらしく、ラジオを聴いた方から、「あれはゴミじゃないと言ってくれた、市長は我々の苦しみをわかってくれている」と言われたんです。

トップというのは360度見られているということを意識して、大丈夫だと言い続けなければいけない。一挙手一投足が注目され、言動や行動が市民の心を左右する。メディアを通してメッセージを市民に伝える、そこは自分なりに一生懸命努力をしてきたところではありますね。

植木わかる。いやらしく聞こえるかもしれないけれど、そうではない。メディアを通じて社会にというのはもちろんあるけれど、一方で社員に伝えたいことってありますよね。お話をお聞きしていて、社長就任の記者会見のときを思い出しました。当時は右も左もわからないときでしたのでスピーチ原稿が用意されていたんです。でも僕は自分が思っていることを話したかったので自分で原稿を書きました。
僕は、「社長になって何をしたいのかと言ったら、JALを世界一の航空会社にしたい。だけど、
規模とか売上高を誇る気はない。世界で一番お客さまに選ばれ、愛される航空会社になりたい」と書いたのですが、担当部門に確認をしてもらったら、そこは没になっていたんです。理由を聞いても僕は納得できなかった。話し合って、最終的には僕が書いたことを言わせてもらいましたけどね。

記者会見でこの言葉を言ったのは社員に向けてなんですよ、本当は。ありたい姿、最終的に僕が目指しているのはここだよ、と僕は伝えたわけです。パイロットが天職だと思っていた自分が意を決して経営に入り、社長になった。そのときに自分が何をしたいのかちゃんと社員に伝えたい。いまこの最後の一文は、社員みんなの共通語のようになっていて、どこへ行っても、「世界一愛される航空会社になりましょうね」と言ってがんばってくれている。これはうれしいですよ。あぁ、あの時に我を貫いてよかったと思いますね。

中貝“世界”という共通項でいうと、豊岡は「小さな世界都市を目指す」という旗印を掲げています。人口規模は小さくても、世界の人々から尊敬され尊重されるまちを目指すというものです。ここでの「小さい」は、“Small”ではなく、“Local”と訳して、「小さな世界都市 Local & Global City」としています。グローバル化で世界が急速に同じ顔になってきていますから、Localな顔、地域固有の顔であることが世界で輝くチャンスにつながる。そのお手本になったのが、この城崎でした。

城崎温泉に外国人旅行者が増えてきて、何故だろうと考えたとき、この日本の伝統的な町並みとスタイルに惹かれているからで、地域固有のLocalであることが世界で輝くということがわかったんです。城崎は1925年の北但大震災のあと、木造3階建て建築で復興しました。兵庫県は洋風建築で復興することを提案したのですが、城崎の人たちは「それは城崎じゃない」と抵抗したんですね。城崎が、自分たちのアイデンティティを考えた結果が木造3階建てでの復興だったんです。でもそれが今日の繁栄につながっている。つまり、海外の方々に受け入れられたLocalとしての見事なお手本が実は豊岡にはあったのです。何をすれば小さくても世界で輝けるのかを考えたとき、この地の自然や歴史、伝統にしっかりと立脚すると同時に、そのLocalは世界に通用するLocalなのかを絶えず意識して世界のレベルに達するように磨いていくことだと方向づけました。豊岡にある各々の地域が、自分たちが受け継いできたもの、自分たちのアイデンティティを考え、それをベースにしながら世界に通用するにはどのように磨いていったらいいのか、それを考えてほしいという思いもあって、豊岡市の旗印は「小さな世界都市」となっているんです。
その心は、「小さくてもいい、堂々とした態度のまちをつくりたい」ということですね。

植木かっこええな(笑)。僕は、JALの伝統やアイデンティティ、つまりJALらしさを考えて、新しいことに挑戦し、改革を進めてきました。それが会社の再建につながると信じてね。なんか似ていますよね(笑)。二人とも共通項がある。例えば先ほどおっしゃった、「自分は役者」ってまったく一緒。僕はあるとき、本社の秘書を全員集めて、秘書とはどうあるべきかを話したことがあるんです。僕は一度も秘書になったことはないけれど、秘書を使う立場で話しをさせてもらうよと言って、「俺は役者だ」と。だから秘書の役目として先ずは、“プロデューサー”であること。つまり、僕の舞台に何を選ぶのかはプロデューサーである秘書の仕事で、おカネの多寡じゃない。価値のある舞台を僕のために用意してほしい、と。2つめは、“演出家”であること。「どうすれば僕が一番輝くのか、一番知っているのは君たちだろう」と。最後は、「健康面も含めて“マネージャー”としての役目をしっかりとしてほしい。この3つを完璧にやってくれたら僕は舞台の中央で必ず輝いてみせるからね」と話したんです。社員が誇れるトップでありたいですよね(笑)。

トップが何よりも先に考えるのは市民のこと、社員のこと ― すべてはみんなの幸福のために

中貝私たちの国では、人口規模の小さなまちよりも大都市のほうが偉いとか、中小零細企業より大企業のほうが偉いとか、価値の序列というものがありますよね。子どもたちはいい大学、いい会社に入れて、部長になったら立派、社長になったらまちの誇り。これはこれで一つの大切な価値基準だとは思いますが、そうするとどんどん地方から東京圏へ人が流れていく。これは壊さないといけない。でもなかなか壊れない。ですから、豊岡の戦略はもう東京とか大都市との比較ではなく、いきなり世界で輝くことを目指そうと。豊岡のような小さなまちでも、本当に通用するものを持っていれば評価してくれるはずという見込みですね。
「小さな世界都市」を掲げ、世界に通用するものができれば小さくても堂々とした態度でこのまちを誇りに思え、ここの暮らしを幸せに感じることができる。世界中日本中に素敵なまちがあることはよく知っているけれど、それでも自分はこの豊岡がいいという大人たちが増え、それを子どもたちが受け継ぎ、一度は広い世界を見るために大都市に出て行っても、豊岡が好きだからといって帰ってきて、この地から世界と結ばれていく。そういった誇りを市民にもってもらえる豊岡でありたいし、そういうまちをつくりたい。いま、着実にその方向に進みつつあると思っているんです。

植木やっぱり似ている(笑)。市長の根本に流れていることは「市民が好き」ということで、とにかく市民を幸せにしたい。僕でいえば、僕は社員が大好きで、社員に幸せになってもらいたい。このことを自分のことよりも先に考えられる人間だから、いろいろと共通項があるんでしょうね。お話をお聞きしていてそう思いました。豊岡市を東京のようにしたいとはまったく思っていないでしょ。豊岡の人口が、8万人が10万人、15万人になるかはわからないけれど、そこに100万人の
観光客に来てほしいわけではない。豊岡なりの幸せなイメージがあって、まちを歩けなくなるのは豊岡にとっての幸せだとは決して思っていらっしゃらない。
それは、僕らが売上高を競う気がないというのと同じで、この辺りが共通しているんでしょうね。うん、匂うな(笑)。

中貝おっしゃるとおりですね。ほんと、似ていますね(笑)。

植木僕は、新しい役員を選んで本人に伝えるときに約束してもらうことがあるんです。「絶対に一つだけ外してもらっては困ることがある。これを守れないならいま断ってええで」って(笑)。それは、“社員を見ること”なんです。これができなければ別の人を考える、と。
「社員の幸せはお互いに見てはいるけれども意見が違うということはある、これはいくらでも話し合える。でも、もし君が違うものを見るのであれば僕は一緒に仕事はやっていけないから、性根を据えていま答えてほしい」と話すんです。それで、「もし、1年目でも2年目でも、社員を見られない人だなと思ったら、悪い、変えるから」と。だから役員ほど不安定な職種はないんですよ(笑)。覚悟を持って役員になる気があるのかどうか返事してくれと言って、まあ、いまのところ断った人はいませんけどね(笑)。

僕は数字だけを追い求めて経営したことはないんです。企業理念にあるように目的は社員を幸せにすることで、幸せにしていくための手段として数字を出す必要がある。数字だけ追い求めて社員のことを見られないようであれば、僕は役員とは認めませんね。もちろん、「数字を出せ」とは言いますよ。経営者ですから。でもそれを目的としてはいけない。社員がやる気を出して力を発揮していけば必ず会社に返ってくるんです。そのためには社員との間に信頼関係を築く必要があって、社員から信用されるには自分もちゃんと社員を見て、考え、行動しなくてはダメなんです。信用できないトップ、役員のために一生懸命働かないでしょ。先ほどから出ているブランドですが、お客さまや外との絆と言われますけれど、役員と社員との絆もブランドといえるわけで、そこに信頼関係がなければブランドは育たない。市長と市民、職員も同じですよね。

豊岡の新たな戦略 ― 演劇を核としたブランディング

中貝いま豊岡ではブランディングの軸に「演劇」を取り入れたまちづくりを推進しています。なぜ演劇なのかというと、きっかけは阪神淡路大震災なんです。秋田のわらび座という劇団の創始者が豊岡市の隣町の出身ということもあってご縁があったのですが、彼らがコウノトリの野生復帰をテーマにした音楽物語を創って、阪神間で上演しようとしたときにあの震災が起きたんです。それで、わらび座のみなさんが「被災地の人々の力になりたい」と避難所をまわることを申し出てくださって、僕も一緒にずっと避難所をまわりました。

実はこれにはもともとのきっかけがあるんです。震災の1カ月後くらいに、東京の楽団の弦楽四重奏の方たちが避難所で演奏してくださったのですが、被災した人たちは手を合わせて涙しながらその演奏を聴いていたんです。そのときに、人には食料も水もお金も大切だけど、音楽のように人のハートに響くものも大切だとわかり、文化や芸術の奥深さを知ったんです。だからわらび座の方には「ぜひやってほしい」とお願いして避難所をまわったところ、やはり同じことが起きました。劇団員の方たちが太鼓を叩いて踊れば、避難所の人たちが元気になる。子どももご高齢の方も元気を取り戻す。ですから、演劇とか音楽だとか、こういった芸術や文化がハートに響き、人を支えているというのを目の当たりにしましたので、これが僕のなかで演劇に関する原点のようになっているんですね。2005年に1市5町が合併したとき、出石町に古い芝居小屋の「永楽館」というのが残されていて、これを見たらすっかり惚れ込んでしまったので復活させたんです。いまでは歌舞伎が大人気になって、より一層、演劇に親しみがわいています。

植木いま我々がいるこの「城崎国際アートセンター」、ここもおもしろい仕組みですよね。先ほどご案内いただきましたが、レジデンスだから部屋もキッチンもあって、ここに滞在しながら演劇ができる。こんなに大きなホールもあって、演劇する人、アーティストにとっては聖地みたいですよね。

中貝ここは県から譲り受けたのですが、最初はどう活かせばいいのか悩みました。あるとき、それこそ飛行機のなかで「わらび座」のことを思い出して、ふと浮かんだアイデアが、劇団に無料で貸し出してみてはどうかと。ちょうど劇作家の平田オリザさんが文化講演で豊岡にいらしていたので職員を通じて相談したところ、「難しいかもしれないけれど、なんとかなる可能性はある」みたいなことをおっしゃったと聞いて、俄然その気になったんです。ご本人は「そうは言っていない」とおっしゃっていましたけど(笑)。

©西山円茄

城崎国際アートセンター

施設の使用を有料にしてもたかが知れています。それならば劇団に無料で提供することで評判になれば新しいお客さまがこの城崎に来られるし、まち全体が潤います。平田さんにいろいろとご相談し、結果的に芸術創作活動のための“アーティスト・イン・レジデンス”(滞在型創作施設)として2014年にオープンさせたのが、この「城崎国際アートセンター」です。平田さんにはここの芸術監督になっていただきました。開けてみれば初年度から320日の稼働日数で、世界中からアーティストたちがやってきてビックリするくらい大成功。ここに滞在する人は町民価格の100円で外湯に入れるようになっていますので、地元の人と分け隔てなく過ごしてもらえるんです。外湯には観光客の方も地元の人も行きますから、文字通り“裸の付き合い”もできる。まちのコミュニティから疎外されないようになっているんですね。こういったこともクチコミで広がっています。日本には絵画とか彫刻などのビジュアル系のレジデンスはありましたが、演劇やダンスのレジデンスはあまりなかったので、これも奏功していると思います。アーティストたちの創作活動の成果発表を地元の人も楽しめて、演劇に親しみを持つことができる。国際的な活動になっています。

植木市長はいいところに目を付けましたねぇ。アイデアマンでもいらっしゃる(笑)。滞在するアーティストにとっては恵まれた環境のなかで好きな演劇をできるわけですから、本当に聖地ですね。この活動が専門職大学につながっていくわけですね。

中貝はい。豊岡には大学がないので悲願なんです。専門職大学という新しい制度であれば、この少子化のなかでも可能ではないか、アートを中心にすれば世界中からくるのではないかと思い、知事に提案しました。知事はアートセンターの成功をすごく評価してくださっていましたし、平田さんもいらっしゃいますから、知事もピンときたのでしょうね。さらには、城崎には世界中から日本的なものに惹かれて外国人旅行者が来られているので、これは観光のお手本だと。それで、アートと観光をテーマにした専門職大学ができることになったんです。学長候補は平田さんで、2021年4月の開学を目指しています。平田さんも豊岡に移住され、彼の劇団の本拠も豊岡に移されます。狙ったわけではなくて、いろいろなことがうまくつながって演劇のいろいろな拠点やら推進力が豊岡に集まったものですから、チャンスを生かしてきたという感じですね。

植木おもしろいですね。平田オリザさんとの出会いも大きいことですが、城崎だからこそ、文化、アートといった芸術に関わる人を呼び込む力があって、演劇が豊岡のまちづくりの核、ブランディング要素になってきたのでしょうね。

中貝地方の人口減少は厳しくて、毎年10万人以上の若者が東京圏に出て行ってしまうわけですね。生半可なことでは人口減少を和らげることはできない。だから豊岡は圧倒的に突き抜けた価値を創らなければならなくて、「だから豊岡が好き!」といえるものがないと、豊岡にとどまってもらう、帰ってきてもらうというのは難しいと思っています。その突き抜けた価値が何かといったときに、演劇でいけるのではないかという直感があって、演劇で突き抜けていくことにしたわけです。

植木豊岡でなければいけない理由をつくるということですね。そこでなければいけない理由を持っていたら、強いですよね。僕らもJALでなければいけない理由を持つ必要がある。選ばれるための強み。それと同じですよね。

豊岡の子どもたちが世界に羽ばたくために ― 演劇を核に市が全力で取り組む

中貝豊岡では、子どもたちの教育にも演劇を取り入れています。平田オリザさんは、演劇は子どものコミュニケーション教育に最適なツールだとおっしゃられて、モデル校で試験的に始め、2017年度からは豊岡市の小学6年生と中学1年生全員が演劇手法を取り入れた授業を受けています。演劇というのはいろいろな役割を演じますから、例えばいじめっ子がいじめられっ子の役を本気で演じたら何が起きるか。10人いれば10人の正しさもある。相手を理解し、自分を主張することのできる能力がコミュニケーション能力なんですね。子どもたちが自分たちで考え、脚本をつくったり、お芝居を演じたりと、楽しみながらコミュニケーション能力を身につけられるよう、平田さんが監修してくださっています。

さらに、今年の秋からは演劇を使って“非認知能力”を向上させる実証的な取り組みをはじめます。学力とかIQのように数字で測ることができるのが“認知能力”で、それ以外の能力や資質が“非認知能力”。代表的なのが、やり抜く力や創造力、自分をコントロールする自制心ですね。日本では認知能力、つまり学力を向上させる教育に徹してきましたが、その向上には“非認知能力”がベースになっていることが世界中の調査でわかってきて、この能力は幼児期と小学校低学年でほぼ原形ができると言われているんです。ですので、非認知能力を高めるために演劇やダンスで表現することを学ぶ、表現力を鍛えていくんです。その日に学んだことは必ず振り返り、反省をし、また学ぶ。そうやって鍛えていくんですね。プログラムは平田さんがつくり、専門家の方に科学的にこの取り組みを追いかけていただく予定で、もし効果を実証できれば、演劇は子どもの教育になくてはならないものになるわけですね。演劇で子どものコミュニケーション能力を伸ばし、世界に通用するような劇団が豊岡に移り、アートをテーマとした大学もできる、演劇祭もやる。そして演劇で子どもたちの非認知能力を高める可能性もある。「深さをもった演劇のまち」というまちづくりの可能性が形になってきたという感じですね。

植木自分の父親が役者だったからというわけではないけれど、たしかに演ずるという行為は、表現力、創造力が鍛えられますよね。たしかにそうだ。ずっとお話をお聞きしていて、ふと、僕は非認知能力が高いかも、と思いました(笑)。子どものころに原型ができると言われたのも、理屈はないけれどそんな気がします。でも僕は演劇をやっていない。子どものころに自宅近くの撮影所で兄弟でチャンバラごっこして遊んだことはありますが(笑)。何をやっていたかなと考えたら、悪ガキ集団をつくってそこの団長になって毎日遊んでたんやって思い出した。振り返り、反省は?と考えると、否が応でも先生に呼びだされた(笑)。いずれにしても、豊岡は、子どもの未来、育てる環境づくりも演劇によるまちづくりの全体構想の軸になっているわけですね。

中貝ええ。豊岡では以前から子どもたちの脳や心の発達を促す「運動遊び」というのをすべての幼稚園、保育園、こども園で展開しています。このこともあって、実は、発達障害児の発達支援も演劇を活かして行っています。発達障害は先天的な脳の機能障害で、例えば子ども同士で遊ぶことができないことも、障害として表れているんです。でも子どもは運動すると脳の機能が向上するということで、運動遊びで発達障害児の発達支援を行っているのが、東京をベースに活動しているスパーク協会という団体なんです。その協会に豊岡にも事業所を出しませんかとお声がけして、今年の4月から地元企業と協力して事業を実施していただいています。この運動遊びは、ただ身体を動かすとか、手を振りましょうというのでは発達障害児を動かすことができないので、思わず子どもたちの身体が動いてしまうほどその気にさせるくらい、指導員も本気になって飛んだり跳ねたり、おかしな格好をする。つまりここにも演劇が役割を果たしてくれているんです。「演劇って楽しいよね」だけではなく、演劇を通してこういったさまざまなことができる、これが、豊岡が目指している「深さを持った演劇のまち」というものなんですね。

現在、市内の幼稚園や保育園、こども園に英語の指導者を豊岡市で派遣していて、オールイングリッシュによる英語遊び、英語に馴染んでいくというのも展開しています。加えて、僕はいま毎年、市内の中学校と高校の全校を授業して回っているのですが、それは豊岡がどれだけ素敵なところかをたくさん知ってもらうためなんです。これに、先ほどのコミュニケーション能力の演劇授業が加わるので、豊岡の子どもたちは、いずれ海外の人たちと英語でコミュニケーションをとりながら豊岡の良さを伝えられるようになる、そういう構想なんです。

植木それはいいですねえ。豊岡の子どもたちが豊岡の案内人になって、英語でも説明ができる、かっこええやん!て思いました(笑)。

中貝ありがとうございます。先ほど市民との信頼関係というお話しがありましたが、僕はいろいろな企業の方と話をしたり、ご一緒に何か取り組みましょうというときに、豊岡というまちも市役所も一人の人間と同じだと思っていますので、この人は信用できるか、いいパートナーになれるかというのがすごく重要なポイントになります。その意味では、豊岡というまちは、まちをあげて絶滅したコウノトリを野生復帰させたことが信用につながっていると感じています。農薬に頼らない農業を拡げるために農家を説得したり、50年とか60年とか何十年もかけておカネの足しにもならないようなことにものすごくエネルギーを割いてコウノトリを空に帰した、こんなことを成し遂げたまちなら信用できるし信頼できると。この信用と信頼がブランドなのかもしれないという気がしますよね。つまり、利益だけで動いてないとか、利害だけで動いてないとか、自分たちの大切なものを一心不乱に守る、やり遂げたまちだということが一緒にできるかどうかのベースになっているという気がします。

植木利益が出なくても何十年もかけてそれだけのことを成し遂げた、これは本当にすごいことです。関西弁でいうとアホやっちゅうことやね(笑)。これ、関西人にとっては褒め言葉ですから。僕はアホができない人とは友達になりたくない(笑)。

うちの会社がなぜつぶれたかと言えば、おカネがまわらなくなったからですよね。利益が出なくて見放されて、破綻した。どん底から再建をしようと、当初はどうやって利益を出すのか、収入を最大に経費を最小に、切り詰められるものは本当になんでも切り詰めました。それこそオフィスの蛍光灯は4本あったものを1本に。3年目にやっと4本に戻したのですが、ある役員が「まぶしすぎて仕事ができない」って(笑)。まあ、このやり方もそれはそれで正しいとは思いますが、ある程度余裕ができてしっかりした会社になったら、アホせないかんねん、て思うんですよ。つまり利益のでないことをする。あとは、それがいつか会社に返ってくると信じられるかどうかだけです。これができる人とできない人の差。できない人は、数字に表れない、いますぐ利益がでないものはやっぱり信じられない。稲盛さんもあれだけ厳しく数字数字数字とおっしゃっていて、社長になって1年半ほど経ったときにある案件を持っていったのですが、何ておっしゃったと思います?「目先の利益を追いやがって」。もうね、利益だせって言ったやろ!って心の中で思いましたよね(笑)。でもその瞬間が、よし、次のステップにそろそろ入っていいな、というのを本能的に稲盛さんが感じられた瞬間だったんですね。「正しい利益を今度は教えてやろう」と。正しい利益のなかには無駄が必ずある。その無駄がいつかキラリと光る。つまり、目先の利益にこだわらずに大局を判断し、かつ利益を出せることを両立させる。それができない経営者はおもしろくないということなんですよね(笑)。

強いリーダーシップで切り開く持続的成長のカギ

植木いま世界中でSDGs目標*の達成にむけた動きがありますね。当社はESG経営**というのを中期計画に掲げて取り組んでいます。「S」がSocialで二つあるのですが、一つは「お客さま・地域」、もう一つが「人権・ダイバーシティ&インクルージョン(以下、D&I )」。“地域”は、「新JAPAN PROJECT」などの地域活性化やインバウンド拡大ですね。それと、僕が社長になって注力していたのがもう一つの“ダイバーシティ”。会社が成長するには女性の力はとても重要だと思って進めてきました。
*SDGs=「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称。2015年9月に国連で採択された国際社会共通の目標。
**ESG= Environment「環境」、Social「お客さま・地域」、Social「人権・D&I」、Governance「ガバナンス」

中貝同感ですね。豊岡がいま注力しているのが、ジェンダーギャップの解消です。「多様性を受け入れ、支え合うリベラルなまちをつくる」ということを、「小さな世界都市」の条件に位置づけています。豊岡の人口減少は厳しくて、10代の9割程が市外に出ていきます。20代で結構帰ってきますが、それでも4割程度で男女別に見ると、男性52%、女性27%と、圧倒的に女性が帰ってきていません。国勢調査の2010年と2015年比較では、女性は6ポイント下がっていて、男性は17ポイント上がっている。この恐ろしさに気付いたのです。なぜこんなにも女性のUターン率が悪いのかと考えたとき、豊岡はあまりにも男社会で、女性に期待をしてこなかったのではないだろうか、というのが僕たちの出した結論です。

例えば、まちづくりの会合やイベントに集まるのは男性ばかり。会社の社長も経営幹部もほとんど男性。法事では男性たちは料理を食べて酒を飲み、女性たちはひたすら台所で料理を作り、お燗して接待をする。つまり女性は男性の補佐でしかないようなこういうところに都市の大学に出た女性が帰ってきたくなるだろうかと。これは切実な問題で、女性の役割と出番があるまちにしていかないと、このままでは豊岡の存続に関わる、持続可能性は低くなる一方だというところからスタートしました。女性職員たちのインタビューの結果を聞くと、結婚や出産などでキャリアアップをあきらめてきたというのもあって、いままで何もしてこなかったことをトップとして本当に反省しました。企業の社長と話す機会も多いので、「採用した女性が能力を発揮できないのは、会社にとっても大きな損失ですよね」と話すと、理解を示してくださる方もいらっしゃいます。それでいま、この取り組みに賛同してくださった企業20社と豊岡市とで切磋琢磨して、社長や人事担当者、職員の研修会を開いたり、いろいろと始めているところです。ですから、平等に云々というよりも豊岡市はジェンダーギャップの解消が一番の課題です。

植木たしかに切実ですね。女性活躍推進ということでいえば、僕は2015年秋に社長直轄のクロスファンクショナルチーム「JALなでしこラボ」を設置しました。女性社員の横断チームで研究課題に取り組むのですが、例えば、女性が管理職を目指すためには何が必要か、考え方の偏りや先入観を取り払ってどのようにダイバーシティを進めるのかなど、それぞれのテーマで研究し、成果を発表します。僕も参加して車座でみんなと意見交換しましたが、男性では思いつかないようなアイデアもたくさんあります。毎年実施していて、おかげさまで「なでしこ銘柄*」に4年連続で選定していただきました。

「J-Win ダイバーシティ・アワード**」というのもあって、ベーシック部門とその上のアドバンス部門でも評価をいただいたのですが、昨年、「植木さん、個人賞をいただいたそうです。表彰式に行ってください」と言われたんですね。僕たちが注力していたのは企業賞でしたので、「個人賞ってなんや?」と聞いたら、「刺身のつまみたいなもんじゃないですかね」と言われたので、合間に表彰されるんやな、と思って行ったんです。でもいつになっても名前を呼ばれない。そのうち重々しい音(ドラムロール)がして、「あれ?ひょっとして俺ってメイン?」と思っていたら壇上に呼ばれて一言ご挨拶をって。僕は「経営者アワード」というのをいただいたのですが、挨拶なんて何も考えてないわけですよ。うちのスタッフもひどいですよね(笑)。そこで出てきた言葉が「これは女性活躍推進を積極的に行っている企業のトップにいただいたのかもしれませんけれども、私は決して女性活躍推進者ではありません。女性だけを見る色眼鏡を持っていないだけで、男性も女性も同じ眼鏡で見ていましたから。ありがとうございました」と。そうしたらシーンとなってしまった。そのうちに拍手をいただきましたけど(笑)。

経営者として会社を善くするにはどうしたらいいか、それを考えていくと、いま必要なのは女性の力だと思っているから僕はこれをやってきただけなんです。女性は男性にないものを持っているし、男性が苦手なところを女性はカバーできる力があるから、これを発揮させる場をつくってこなかったことは大きな間違いなんですよ。いまのJALに必要なのは女性の力だと、僕は信じているんです。でも、40歳前後の女性社員で一番よくないのは、「君ならできる、管理職に挑戦してみなさい」と言っても、「いえいえ、私なんか」って、これですよ(笑)。初めての女性社長を目指してもいいじゃないか、高い目標を持って頑張ってほしいと思いますね。一つしかない社長という椅子を目指すとか、みんなが高い目標を持って切磋琢磨して頑張れば、きっといい会社ができあがっていくと思っているんです。女性市長を目指すことと同じですよね。
*経済産業省と東京証券取引所が共同で実施する、女性活躍推進に優れた企業を毎年、選定・発表する事業
**D&I推進の先進企業を表彰するもので、特定非営利活動法人ジャパン・ウィメンズ・イノベイティブ・ネットワーク(略称:「NPO法人J-Win」)が主催

中貝観光業であってもまちづくりであっても、企業であっても、男性にない女性ならではのアイデアが生きる場所はありますよね。豊岡では市町長の歴史にまだ女性はいませんから、女性職員が高みを目指す、その気にさせるのもトップの役割かもしれませんね。

植木社長には男性と女性の二人の秘書がつくんですね。業務規程があるわけではないのですが、僕にいつもついているのは男性秘書で、女性はスケジューリングとか書類作成とかをしてくれている。僕は社長になって2年目に女性秘書を出張に同行させたことがあるのですが、これがたいへんな騒ぎになりましたわ(笑)。前例がないから。でも僕は必要と思えば海外出張にも連れて行きましたよ、女性秘書を。彼女は外での僕の仕事を見たことがなかったから、そのときに「植木さん、いつも事前のブリーフィングメモをつくるときに、これにあれを書いておいてくれとか、あれもこれもって、なんてわがままな人かと思っていましたけど、わかりました。植木さん、あそこで勝負してくれているんですよね。やっぱり現場を見ないとだめですね」と言ってくれたんです。男性のほうが気兼ねしないとか、扱いやすいというのもあるかもしれないけれど、そもそもそこで男性とか女性とかって思っていることがおかしいですよね。秘書が二人いれば、僕が何者であるかを二人に公平に見てほしいと思う。ただそれだけなんですよ。変かなぁ(笑)。

中貝いえいえ、すごくわかります。豊岡市役所も今年、「ワークイノベーション推進室」という部屋をつくったんです。ジェンダーギャップの解消のための。
会長からいろいろと教えていただきたいし、ちょっとJALさんを勉強させていただきたいと思いました。

植木はい、いつでもいらしてください(笑)。

(2019年7月 城崎国際アートセンターにて)

  • 近畿最古の芝居小屋「出石 永楽館」
    (城崎温泉から車で約30分)

  • 出石皿そば

  • パワースポット「玄武洞」
    (城崎温泉から車で約10分)

  • ©コウノトリ文化館

    兵庫県立コウノトリの郷公園
    (城崎温泉から車で約20分)

  • 城崎国際アートセンター ロビーにて

profile中貝宗治(なかがい・むねはる)
兵庫県豊岡市長
兵庫県豊岡市出身。京都大学法学部を卒業後、1978年に兵庫県庁に入庁。県職員時代の1987年に大阪大学大学院経済学研究科経営学専攻前期課程を修了。1990年兵庫県庁を退職し、翌1991年4月、兵庫県議会議員に当選。2001年7月、豊岡市長に就任。2005年5月に市町合併による新「豊岡市」の市長に就任。現在4期目。
好きな言葉は、“夢はでっかく 根は深く”、“願うこと 願い続けること 投げ出さないこと”。

profile植木義晴(うえき・よしはる)
日本航空 代表取締役会長
京都府出身。1975年航空大学校卒業後、パイロットとして日本航空に入社。1994年にDC10の運航乗員部機長、その後B747-400運航乗員部機長を歴任。ジェイエア副社長を経て、経営破綻後の2010年2月に稲盛和夫会長のもと、執行役員運航本部長に就任。同年12月から専務執行役員路線統括本部長となり、2012年2月より代表取締役社長。2018年4月より現職。父親は俳優の片岡千恵蔵。

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